数あるサイトの中でこちらの記事にアクセスいただきありがとうございます。
ご機嫌いかがでしょうか。また、いかがお過ごしですか。自分はまあまあといった感じです。
利き手とは逆のほうの手で歯ブラシをするようになったり、1日に二郎系を2軒回ってたりしていました(さすがにヤバかった)。
さてそんな話はここで終わりにして……。今回は歴史、とりわけ現代史で自分が尊敬する人物の中から3名をご紹介したいと思います。
なお独断と偏見が存分に含まれておりますことをご了承ください。
ヨシップ・ブロズ・チトー元大統領

まず1人目はヨシップ・ブロズ・チトーです。
彼はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の支配政党ユーゴスラビア共産主義者同盟の党首にして同国大統領を歴任した人物です。いわゆる独裁者と呼ばれますが、彼が多民族国家であったユーゴスラビアを兄弟愛と統一という理念のもと統治していた時期、それまで激しく対立していた民族同士の関係を融和し比較的平和な時代を保つことができたとされています。
また東西冷戦期に両陣営の所属していなかった第三世界の国々との協調や自主管理社会主義という経済体制の確立といった独自の新しい道を模索しユーゴを牽引していました。
これらの政策や方針はチトー主義と呼ばれていました(自分も時々チトー主義者を自称していたりします)。
またそれ以前の第二次世界大戦中でもヨシフ・スターリン率いるソ連からの支援をほぼ受けることなくしてパルチザンを指揮し、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ国防軍に抵抗し勝利へと導いていました。
しかしながら1980年に彼が死去してしばらくした後、ユーゴ国内では紛争が勃発、民族浄化という名の虐殺やNATO軍による爆撃がおこなわれるなど、同国は激しい戦火に見舞われることになり現在でもその深い爪痕を残すこととなりました。
これには彼に匹敵する後継者がいなかったことが要因であったという意見もあります。
ですが自分は例え一時期であったとしてもユーゴに平安をもたらし、類まれなカリスマ性で国を率いた彼を尊敬して止みません。
ノロドム・シハヌーク殿下

2人目はカンボジア国王のノロドム・シハヌーク殿下です。
彼は第二次世界大戦後にカンボジアを独立へと導いたことからカンボジア独立の父とも呼ばれる人物です。 そしてその後彼は首相となり王制社会主義という政策を実施していきました。
しかしながらシハヌークはベトナム戦争の影響も飛び火して、米国の支援を受けたカンボジア軍のロン・ノルによるクーデターから中国に国外追放を受けます。
ですがそれから彼は本来は敵対していたはずの原始共産制を掲げるポル・ポト率いるクメール・ルージュと手を組みました。
その後彼らがカンボジアを掌握し民主カンプチアが建国されシハヌークは名目上は国のトップに返り咲くことはできました。
そしてポル・ポト政権下で数多くのカンボジア国民が虐殺されていく中で生き延びることとなりました。
ポル・ポト政権崩壊後は時を経て再び実権を取り戻すこととなり、2012年に中国の北京で89年の生涯に幕を閉じました。
なおシハヌークは歴代で最多の経歴を持つ政治家としてギネスブックに認定されています。動乱の時代でも運命に翻弄されながらも人生を渡り歩いたシハヌークを自分は尊敬します。
ヴォイテク伍長
最後に3人目はポーランド軍のヴォイテクです。
左のおじさんではありません。右側に映っている方です。

何を隠そう、彼はヒトではなく熊なのです。もう1度言います。
ヴォイテクは正真正銘の熊です
(ついでに言うとシリアヒグマ)🐻クマー
蜂蜜等のほか、お酒と煙草が好物だったそうです。 ヴォイテクが軍に所属することになったのは中東のイランで当時第二次世界大戦の影響で現地にいたポーランド軍兵士と出会ったことが最初のきっかけでした。
それから兵士たちとともに、モンテ・カッシーノの戦いに向かう際、必要だった名前と番号と階級が与えられ正式にポーランド軍に入隊することとなりました。
その後、銃弾の運搬等で実際に活躍し、戦後は当時のポーランドの状況が芳しくなかったこともあってスコットランドの動物園に入園することとなり、1963年に22歳で息を引き取りました。
当人(当熊)が実際どのように感じていたのかはわかりませんが、少なくとも自分は軍務とともにマスコット的な存在から兵士達の心を癒すということを全うしたことから尊敬に値すると思います。
いかがでしょうか。今回は自分の主観で以上のラインナップを紹介させていただきました。
もしその他の歴史の人物を知りたいと思われましたら是非ご自身の目で見つけていただけましたら幸いです!
では……
See you next time!